田中和生は「屍」っ?!

笙野頼子『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』を読んでいますが今週は田中和生「文学閉塞の現状――笙野頼子氏に尋ねる」「三田文学」2008冬季号について
感想から言うと田中和生仲俣暁生はそっくりー。まるで先週書いた仲良しカニバットとタコグルメみたいじゃん。そう。田中和生のほうが既に腐った死体であるカニバット(タコグルメのほうはやや頭が良く左翼っぽいのだ)。これは高橋源一郎が言った次の「屍」からも連想した事です。

引用

高橋 いま、僕と田中さんの間で文学論争があるとされています。論争自体は生産的にもなりえる貴重なものですが、僕自身は、相手の弱点を攻撃することへの危惧があり、相手の屍から有意義ななにかが得られるとも思わないので、実はこの件について改めてお話しする気持ちはありませんでした。新潮2008/02「小説と評論の環境問題 高橋源一郎田中和生東浩紀

開口一番、当の相手の弱点だのなんて言う人にはその場で逆襲すべきでしょうが何で反論しないのよう。とろい。のろいんだよう。61才のワタシから見てさえも!
なんと去年の10月ネタを今ごろになってブログに上げてやんの。これを知ったのはhttp://www4.rocketbbs.com/741/kompira.html
何でその時言わねーだか?そいで3ヶ月も満を持したんならさぞ御立派に論考を進められたでしょうと思うと、これがあの時の仲俣をウリをふたつ並べたよに繰り返しているテイのもんだからさあ。うんざりを通り越して萎え〜。
http://blog.so-net.ne.jp/tanakasan/2008-01-10


1 仕掛けて来たのは喪前らだろうが
呼ばれもせんのに仕掛けに来て、作品を「読まず」に批難しといて開き直る狡い仲俣も困ったもんだ。これを人格攻撃とか罵倒とか恫喝とか言うなら言えーい。
けれども「読んだらしい」のにほとんど理解出来てないらしい田中和生って馬鹿なのか?馬鹿の振りした小狡い奴なのか?どっちなのかワタシはずっと悩んできたが何のことはない。その両方だった(2〜4に)。これを人格攻撃とか罵倒とか恫喝とか言うなら言え言え言えーい。仕掛けてきたのは喪前だろうが。まともに反論するほうが限りなく虚しい。でもやっている人がいる。
ごく一部抜粋

仲俣もそうだけど、批判をしかけておいて反批判されると被害者気取りってパターンが好きだな、こいつらは。

しかし、この人のフェミニズム観はいったいいつの話なんだろうか。私が生まれる前のものなんじゃないだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20080113/p1

Close To TheWallさんも冒頭部批判だけでもう「気がすすまない」そうです。
ただワタシは勢いで「三田文学」を注文してしまった。んで…続きを読んだの。webに出てる冒頭部はまだしも張りがあるけど、だんだん溶けた屍のようにどこが目やら鼻やらのずるずる文がトンデモやイカサマ屁理屈を浮かべながらずるずるずると宛てもなく流れていく。全文引用して証拠を出したい位だ。あ、言い過ぎです。一本だけ筋が通っている。それは「笙野頼子フェミニズムのコードに対する依存は徹底している。「三田文学」P192」というしつこい位繰り返される決め付け。
田中にとってフェミニズムとは(そしてフェミニズムに徹底依存しているという笙野頼子は)いつも「無垢な正しい被害者」という位置を取り「男」を悪者にするんだってよ。たった一本通っている筋がこれではなあ。

★笙野自身はフェミニズムと一線を画す、orそれはワンオブゼムの旨あちこちで言っているじゃん。
イカフェミ書こうとしているの知らないんか。そもイカフェミ知らないんじゃない。
★SF,土俗,習合,仏教,ネオリベ等の他コードがまるで見えないんか。わざと言わないんか。
★笙野はかの群像問題では事実を書き抗議している。不正な事実に抗議すると「フェミニズム」なんかよおい。
★反論すべきは当事者大塚英志かI編集長だろ。こいつら黙っていやがって、なんで喪前が仕掛けに来んのさ。


2 トンデモお笑いフェミニズム
田中にとって笙野頼子と「現在のフェミニズム」は

「つねに被害者である女性とつねに加害者である男性という構図が固定化され」るという、現在のフェミニズムが陥っているものとおなじ悪循環に入り込んでいる。田中和生フェミニズムを越えて」群像2007/10

というものである。ありえねえ〜。この人の「弱点」が良く出ているわい。弱点「粗雑で壮語」もここまでくると絶叫ものだ。
かの常識的ウィキペディアを2分間見ただけでもわーフェミニズムこんなになってるう。

ラディカル・フェミニズム リベラル・フェミニズム エコロジカル・フェミニズム 
 精神分析フェミニズム ソーシャリスト・フェミニズム アナキストフェミニズム
 ポストモダンフェミニズム ブラック・フェミニズム 社会主義フェミニズム マルクス主義フェミニズム  カルチュラル・フェミニズム 現象学フェミニズム マルクスフェミニズム レズビアンフェミニズム サイボーグ・フェミニズム ポストコロニアルフェミニズム

つまりフェミニズムの議論はここまで進んでいるということだよ。他にジェンダー論とか女性学というアプローチもある。「フェミニズムは被害者ぶりっこ」で済むと思ってる田中君は非常識というか50年ばかり逆行してませんかい。今やなつかし粗雑説教師草柳大蔵になってませんかい。笙野頼子の『説教師カニバットと百人の危ない美女』1999が書かれた訳が判ってきた。何でこんな過去のゾンビを書くのかと最初思ったけど未だにカニバット系ゾンビが絶えないからだ。
土台からしていい加減だから「フェミニズムを越えて」も「文学閉塞の現状――笙野頼子氏に尋ねる」も情報不正確にして文章の才能もない。
あ、上品すぎだ。素人並だい。いんや馬鹿タレで充分。

3 お笑いウリふたつ
仲俣は笙野の対談から文脈を無視して「テロ」という言葉を引っ張ってきて笙野をブッシュのアメリカに擬していた。田中がそっくり同じ事をやってるのであきれた。というか吹いたところを強調しまして引用。
引用

ニ○○三年にイラク戦争に突入し、イラン、北朝鮮キューバ等の小国を主な敵と見なすようになった、九・一一以降のアメリカ合衆国を分析したエマニュエル・トッド『帝国以後』の論理に倣うなら、笙野頼子が公式にわたしの評論が不要だと宣言するのは、わたしの評論がその作品の評価に致命的な損失をあたえるという不安があるからではないか、と勘ぐってみたくなる。ちょうど小国を敵と名指すことで、自らを世界にとって有用な国だと証明しつづけずにいられなくなったアメリカが、今日の世界においては不要な国なのではないかという不安にかられていると考えることができるように、(略)三田文学P188 強調Panza

ここの他もう一箇所笙野頼子をブッシュに擬す箇所がある。笙野ブッシュ説て流行してんのかい?ネタ元は誰よ?
本が出なかったり追い出されたり選考委員をクビになる権力者って比喩的に無理じゃないんか。この比喩系では田中が小国になるが、なんのなんの今や堂々の群像新人賞選考委員ですからあ小国ぶりっこ無理なんじゃね?


今度は笙野頼子の言い分から引用するね。
引用

 私を追放したI編集長はその後、群像にさして大きい影響を与えないポジションに二年異動されていた。がその後、私を急に選考委員から降板させた偉い方の下で、出版部管理職にご出世なさった。その後さるパーティの二次会で「Iさんの許可をいただいて告げる群像への提案」として、「群像の評論は最近もうひとつだ、田中和生さんその他二名にもっと群像で頑張ってほしい」というご要望が多くの人々の前で、しかも「群像の編集長より偉いのは社長だけ」と言われる程独立的である、当の群像編集長をさしおいて発表された。その中に私が
選考した評論家の名はひとりも入ってなかった。その後その二次会では私にスピーチせよというお達しがあり、しかし私の発言内容は何度もI氏の許可を得て発言した方によって遮られた、その直後群像の親切な新編集長は他の部署に異動した。文藝2007冬号「近況という名の、真っ黒なファイル」P28

★さあてブッシュとは本当は誰でしょう?不安なのは本当は誰でしょうねえ?
★田中は笙野に「二次元」と呼ばれた事に抗議しているけど、ちゃんと読め「意図的な二次元化をせん人がエエ」だよ。
意図的だよ意図的がポイントよ。誰のどういう意図なんかなあ?


4 「文学閉塞の現状――笙野頼子氏に尋ねる」はこの後「ポストモダン」に話を移しますが珍無類で面白いです。それはまた今度ね。

5 田中によると笙野頼子の作品評論が絶賛で埋め尽くされるのは笙野がフェミニズムによって批判を禁じているからなんだそうだwけど、さしずめ次のこれなんかもそうなんかい?ワタシは段違いに見事なプロによるレビューだと思ったけど。「萌神分魂譜」を要約しようとして難儀もいいとこだったワタシには判る。ああこのような情報正確で芸のある評論だけを読みたいものだよ。
 
6 『萌神分魂譜』のレビューが「すばる」2008/02に出ました。
魂のアヴァン・ジャズ」巽孝之

すばる 2008年 02月号 [雑誌]

すばる 2008年 02月号 [雑誌]

この作のコードである音楽を縦糸に(笙野には音楽や声というコードも確かにあるのだ!美と愛もあるし)この作のポイント人間,神,権現,仏もフォイエルバッハもちゃんと出してる!このレビューをよく紹介するのはまたワタシには難儀なので、冒頭と結語をまるまる引用したい。

 昨年ニ〇〇七年の夏のこと、何か一番驚いたといって、ここ十年ばかり一緒に仕事をすることの多かった某出版関係者がジャズ・バンド「渋さ知らズオーケストラ」のダンサーを兼ねているのを知らされた瞬間にまさるものはない。通称「渋さ知らズ」のステージは、巨大な楽器軍団が奏でるジャズ・ロックに加え、少なからぬダンサーたちのチーム「乳房知らズ」の極彩色パフォーマンスや、ときに危険を伴う仕掛けによる圧倒的スペクタクルを見せつけることで、広く知られる。……中略……


著者がごく最近ついに完成した『だいにっほん』三部作が、現在日本の文学で最も痛烈にして最も壮大なネオリベラリズム文学批判であることは、言うをまたない。だが、そこで展開された笙野的スターシステムを共有する、名作『金毘羅』の続編『萌神分魂譜』は、「俺」「彼」「私」「君」を中核とするヴォイスの群れがポリフォニックかつポリリズミックに交錯しつつ位相をずらし、魂の楽譜をもとに即興演奏していくアヴァン・ジャズ小説となっている点で、ひとつの特異点を成す。ここから新しい何かが生まれることを、わたしは信じて疑わない。すばる2007/02P322

7 今(午前2時半)知ったばかりで最後になっちゃったが。このたびの田中和生論文について。ワタシのよりエエから必読のこと!
http://d.hatena.ne.jp/dozeoff/20080114


8 1月19日。やっと出た『萌神分魂譜』の書影です。
 

萌神分魂譜

萌神分魂譜